特産仁方(にがた)ヤスリの歴史
全国的に著名となった仁方ヤスリの創業は極めて古い。
通説によると、文政7年(1824)金谷弥助が大阪立売堀で修行して帰ったといわれ、又一説には、刀匠梶山友平が慶応3年(1867)大阪で製造技術を習得して帰って創業したと言われている。
いずれにせよ仁方ヤスリは大阪から技術を習って帰りこれが広まったことには間違いない。
ヤスリの商標に多く使われる壺印も、大阪市西区阿波座土橋の坪井豊次郎(壺印を入れていた)のヤスリが評判良かったので、この壺印を見習ったものだといわれ(一説にはヤスリの焼入れに使う味噌を入れていた壺からともいわれている)、昔は大阪や新潟県がヤスリの主産地で、仁方には幕末から導入され発展してきたものである。
元来仁方には鍛冶職が多く、専業の他、農家の副業として、刀鍛冶あるいは、こてなどの左官道具・大工道具・すき・くわ・鎌などの農具の製作修理が行われていた所へヤスリが導入され、最初は鍛冶の副業として行われるようになり、家内工業として次第に普及していったのである。
-仁方郷土誌総集編 より-
ヤスリと言えば鋸(のこ)の目立てに使用する刃ヤスリ(両刃やすり)のことであったが、大正末期頃から鉄工ヤスリ・組ヤスリの生産も始まった。この背景には、呉海軍工廠の設置や機械金属製造業などの工業の台頭があったものと思われる。
大正後期から昭和初期までの生産量は220-260万本と推測するが、大戦前の軍拡期になると昭和9(1934)年の315万本、10年の391万本と飛躍的に増加する。昭和10年には海軍工廠の指定工場になる企業もでてきた。
呉海軍工廠のあった呉地区は壊滅的な爆撃を受けたが、幸いにも仁方地区のヤスリはひどい戦災をまぬがれた。
仁方のヤスリ企業は他の産地が戦災を被って製造できない分、需要が増え活気づいた。注文に応じ増産に対応するため、戦争被害で廃業した東京や大阪などのヤスリメ-カ-の機械を買い足し、フル稼働させた。
昭和24年(1949)には全国生産額の70%を占めるに至った。
-改訂やすり読本 苅山信行著-
ヤスリの歴史を考えてみて
ヤスリづくりに携わるものとして、仁方地区でヤスリがつくられるようになった歴史、また飛躍的に生産が伸びた経緯などを考えてみても(このほかにも、地味でまじめなの人々の気質や、ヤスリ材を生産する圧延工場がこの地区にしかない等々)、なぜ人口1万人に満たない日本のどこにでもあるようなこの小さな町が、全国の90%以上を占めるヤスリの町になったか不思議でなりません。
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